登記の市川(建築設計、開発位置指定、土地建物調査測量登記:蒲郡市、豊川市、西尾市、幸田町)

夢を求めて

夢を求めて

理想に燃えて

 あなたは小さいころ自分がなりたい職業があって、その職業に就いていると断言できますか。そのような方は幸せですね。

 二男坊の私は、家業は兄が継ぐことが当然であり、自分は独立しなければならないと理解していたが、確固たる意志を持って何の職業に就きたいというものはなかった。でも、漠然と建築関係の仕事に携わりたいという気持ちはずっと持っていたと思う。ただし、一つの想いはあった。「自営業をして、経営者の立場から蒲郡のまちづくりのリーダーの一人でいたい」曽祖父、祖父、父と地域のまちづくりの先導的立場にあったので、その姿を見たり聞いたりして自分もそうなりたいと思っていた。どんな自営業なのか、それがわからない。それが大問題だった。

 夢は叶えられているのだろうか。

小中時代

 大塚小中学時代は、1学年2クラス60数名の中のガキ大将だった。悪いことをするわけでもない真面目なガキ大将であったと思う。やってもスカートめくり程度。かわいいもんです。今やったら、先生にこっぴどく怒られるらしい。いい時代でした。授業はお休み時間、放課後となると元気が出て、運動場でみんなと遊ぶ中心にいた。

 小4から中3の級長選挙には毎年前期後期どちらかで選ばれていた。自分で立候補したわけではない。唯一立候補したのは中学の選挙管理委員会。クラブ活動をしたかったのに生徒会長に推薦されそうになったからだ。選管担当の先生から「なんでお前が来たんだ」と言われた。

 勉強は中の上。宿題を何とかやる程度だった。「級長やるにはもう少し勉強をがんばって」よく担任の先生からも言われた。でもやる気が起きなかった。

 中学では、威圧感があって、怖くて、おそがい先生が顧問であった卓球部に入り、その先生に認められようとした。練習場が3階にあったので、先生の眼に着きにくく、たまにしか上がってこられない。先輩たちは、卓球ラケットとボールで野球などして遊んでいるところを運悪く見つかり練習禁止命令を出されたなんてことがあった。一方、私が主将のときには、一切無駄口はさせなかった。へらへらしているものがいたら、ラケットで球をぶつけたり、直接たたいたりの先生に勝るとも劣らぬ強権ぶりでした。

 毎日のように先生と職員室で練習の打ち合わせをし指示を受けて実践した。上級生となる2年生夏からの1年間で、先生がクラブ活動に顔を出したのは5日もなかった。基本をしっかり教わるわけではなかった。今では、当時ちょっとやりすぎたとの反省とエースには全く歯が立たんかったなーと素直に感服してます。しかし、当時彼に勝てないことが許せなくて勉強そっちのけで打ち込んだ3年間だった。

 部の成績は芳しくなくいつも早期敗退が続いた。先生からも諦められていたが、なぜか3年の夏の大会で団体市内大会優勝、東三大会準優勝、県大会ベスト8。東三個人戦3位だった。ちょっとした成績を最後に残すことができたが、先生に信頼され認められたことのほうが満足感が大きかったように思う。

高校時代

 どの高校に行こうか考えることもなく、歩いて通える県立蒲郡東高校に入学した。今まで田舎の親分だったのが、8クラス360人もの同級生と出くわすと、多くの猛者を発見してちじこまった。先輩にも威圧感のあるものがいた。「あいつらとかかわったらボコボコにされそうだ。避けて過ごそう。」所詮井の中の蛙であった。

 中学の実績(?)を引っ提げて卓球部に入部した。ところが、新入部員同士で試合をしても勝てない。それも負けるはずのないと勝手に思っていた相手に。「クソー」それで嫌気がさし、1日で退部した。そして、今まで勉強しようとする気もなかったのに、急にやる気がわいてきた。退部したその日、母に「今日から勉強をやる」と言ったら、驚きのあまり返事がなかった。

 学校へは、遅刻寸前に登校し、授業が終わったら直ぐに下校する。そして、自宅学習の生活となった。3年間、教室は変わったが3回とも建物の端にあり、他の同級生とほとんど会わずに登下校した。同じクラスの者と親しい友人となったわけでもない。中学校とは大違いである。中学の同級生からは「どうかなっちゃたの」と言われた。

 もともと勉強しなかったので少し勉強すれば成績は上がった。しかし、致命傷なのは国語が全く駄目であった。すべての教科の基礎は国語である。何をしたらいいのかわからない。よって、理科系を選択せざるを得なかった。

 大学受験においては現役では、試験日が早く受験練習のつもりで受けた防衛大学しか受からなかった。大学に行けば永久就職が決まることになる。自営業をしまちづくりをしたいという気持ちがあったので、悩むことなく浪人した。

大学時代

 一年後、家庭事情もあり国公立大学で家から通えるところと思っていた。名古屋工業大学の計測工学科に入学できた。建築の測量もやるんだろうとの推測で入学したが、さにあらず。土木建築以外の機械測量、自動制御、情報処理(コンピューター)、数学の学科だった。「別にどうしても建築をしたいわけでもないからまいっか」のんきな者でした。

 「自分はどの職業をしたいのかわからない。でも、英会話はどの職業でも必要だ」と思いこみ大学のESS(English Speaking Society:英語クラブ)に入部した。しかし、ちっとも英会話が上達しない。努力したつもりであったが、部員の中で断トツ最低の英会話力であった。

 その中で、楽しいこともあった。愛知県内の各大学(名古屋大学、椙山、淑徳、金城、等)のESSが団体を形成し、英語力向上のイベントを開催していた。そのひとつにサマーキャンプといって、泊まりのバス旅行もあった。何をしたかも今となっては何も覚えていないのだが、何故か人気があった。「顔で持てるわけないから、団体行動をするうえで場を盛り上げる何かを持っている。高校時代は静かにしていたけれど、小中のガキ大将の実績はまんざら捨てたもんじゃない」昔の自信を取り戻した。

 大学3年の夏に、45日ほどヨーロッパ一周の一人旅をした。出発前に、【地球の歩き方・トーマスクック電車時刻表】を参考にすべての行程を作成しほぼそれに基づいて旅行した。無計画でのんびりと旅行しているという日本人にもあったが、そうしないと気がすまなかった。

 総費用50万円。内訳、往復飛行機代約26万円。2等ユーレイルパス(ヨーロッパの鉄道乗り放題券)約12万円。宿泊・食費12万円。電車内泊、ユースホステル泊。日本⇒フランス⇒スペイン⇒イタリア⇒オーストリア⇒スイス⇒ドイツ⇒デンマーク⇒スウェーデン⇒オランダ⇒ルクセンブルク⇒イギリス⇒シンガポール⇒日本。宿泊・食費・みやげで1日3千円の旅だった。3回ほどのマクドナルドでの五百円は豪華な食事だった。通常スーパーに行ってパン牛乳を買って腹ごしらえした。

 一人旅して、何か変わったのか。日本人の美徳の協調性はどこえやら。ますます独立心が芽生えた。

 日頃会話もほとんどしない親父が、豊橋駅まで迎えにきていた。さぞ心配だったことだろう。

会社員時代

 就職先を決めるにあたっても、何をしたいかわからない。一度自宅から離れて就職し、今後どうしたいのか考えよう。サラリーマン勤めがいいと思いなおすことがあるかもしれない。

 神奈川県川崎市のF社に入社した。当時新社員は500名ほどいたと思う。配属決定前の1.5ヶ月、スピーチ訓練、コンピュータ実習、工場実習等の新入社員教育がなされた。どの部署に配属されるのか不安を抱きながら、毎日のように居酒屋で交流会をもった。ここでも一瞬人気者になってしまった。スピーチ訓練でのスピーチがうけたらしく、飲み屋では私がどんな人物か注目の的であった。一瞬です。配属された部には8名ほどの同期がいた。夜9時を過ぎても、声を掛け合い居酒屋にいった。

 時がたつにつれて、大都会で結婚し一生を過ごすと思うとゾッとした。隣人付き合いのない冷たい社会には我慢できなかった。やっぱり故郷に帰って自営業をしたい。

自営業からメッキ自営業へ

 F社を退社帰郷し、ソフト業務を立ち上げる努力をしたが先は暗闇の中。何ともならない。
「これじゃ自営業をしている養子先でも探すか。」幼なじみと酒を酌み明かしていると冗談で言ったものだった。ところが、建築設計事務所を経営しているお嬢様と付き合うことになった。口の悪い親友からは「美女と野獣」とののしられた。何所にご縁があるのかわからない。

 利発で、おとなしい性格で、マイペース。他人のことは気にしない。「世のため、人のため」と想い続ける自分と大違いだ。しかし、私の想いに対して、冷静に見てくれる人のほうがいいかも。きっそそうだ。そして、結婚し義父の経営する会社に入った。まず一生懸命仕事をしようと誓った。

 一人で開業している事務所が多い中で、7人程の従業員がいる事務所は三河地方にそうない。「まちづくりのリーダーになるためには、自営業が成功していないと相手にされない。所詮、他人のふんどしなのだから今以上に成功させなければならない。」意気込むも大きな誤算だった。

 一年もすると、会社の状況が理解できるようになった。バブルがはじけてこのままでは会社は衰退すること。現従業員は義父に従うが、私にはついてこないこと。「設計事務所は一代もの」言われたし、態度が物語たった。「建築だけではだめだ。もっと幅を広げないと。まず建築関係の資格を取ろう」机に向かうことには苦痛もなかったので、夜は勉強することになる。その結果、建築士、土地家屋調査士、行政書士等の資格を得た。司法書士の資格も得たかったが、自営業見習いしながら受かるほど甘くはなかった。

まちづくりへの参加

 一方、蒲郡青年会議所(JC)に入会した。フレンドシップかまちづくりかとの議論もあるが、日中、そして夜と活動時間が長い。私にはそんな時間は与えられていなかった。配属された委員会と、毎月の例会に出席するのが精いっぱい。出席率が悪い奴がまちづくりに物を申しても相手にされなかった。

 蒲郡商工会議所青年部会の例会で市長への質問コーナーがあった。「こんな活気のない、すたれた蒲郡何とかなりませんか」とお伺いしたところ「そんなに気に入らないのなら蒲郡から出ていったらどうですか」ときつくおっしゃられた。他の出席者からは「おまえの市長への言い方が気に入らない。」とか、「質問の趣旨は理解するけれどももう少しマイルドに話してくれ。」こんなことでは蒲郡は変わらない。

 これをきっかけに、2003年、より良い蒲郡にするためのHP「とことん蒲郡」を開設・更新することになる。メインは議員数・報酬削減、市職員数・給与削減。何をやる、これをやるという前に、低成長時代で予算がないのだから、まず身を切りなさい。既得権益を精査しなさい。

 不景気のせいか最近サラリーマン議員が多くなっているが、否定的だ。蒲郡程度のまちであれば給料を当てにしている議員は必要ないと思っている。地位と名誉を望む議員は勿論いらない。改革的な提言を主張し続ける議員が必要である。「無報酬でもまちのためにがんばっているのだぞ」というすごみがなければ、市職員にも相手にされない。まず自営していること。自営による世間の信頼の上で、まちづくりをする。そんな議員を切望する。

 今橋下大阪市長、河村名古屋市長が日本をそして蒲郡を変えてくれようとしている。私は自営がなかなか軌道に乗らない中で、二人の市長と主張はほぼ同じなんだということを数年前開設したHPにより公に示しているだけで十分と思うようになった。「だから言ったじゃない。」市民にいつか言える日がかならず来るはずだ。今後まちづくりは子供会、PTAのように住民の推薦があったときにやろう。

完全独立して

 数年前(平成18年)、義父より会社を譲り受けた時には、もう旧従業員はだれ一人いなくなっていた。今も従業員を抱え建築事務所を経営されているところも近くにある。私にはそんな甲斐性はなかったけれど、50も過ぎてやっと新しい会社を築き上げる下地ができたところだ。従業員も2名いる。いただいた仕事を、根っからの真面目さと責任感の強さ、さらに誠意をもって対応すれば、きっと喜んでもらえるはずだ。それしかない。

 断言できないけれど、やっぱり振り返れば今の仕事が自分のしたいことだったのだろう。このサービス業はお客様の財産を守る重大な責任がある。予期せぬ問題が発生するとなお大変だ。しかし、未だ成功にはほど遠いけれど、自分のしたいことがやれるという幸せはお金には代えられない。お客様の笑顔を力にして夢を叶えたい。


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